2013年11月20日水曜日

地球における生物学的捕食と被食の関係

別サイトから転載する。



自然界には食物連鎖がある。
この鎖状の関係は、一本に繋がり、最終地点で地球に戻ってくる。
そのシステムは、地球あるいは生物の限界点があるからこそ連鎖で循環しているのだ。

捕食は、餌となる対象を捕らえて食べることをいうが、それには必ず被食となる対象が必要だ。
私たち人間もその連鎖の中にいるのだが、通常捕食の対象となる生き物は決まっている。
何故決まっているのかというのは、恐らく捕食質と被食質が一致するものでなければならない生物的な機能が存在するからである。
つまり、食べる側と食べられる側にはお互い了承するような機能がなければならないのだ。
でなければ、体内で何らかの拒否反応が起こるはずである。
確かに、「癌」などはその拒否反応の一つと考えられるが、取り込んでもそれを消化分解できない反発的性質があるからだと思われる。

私たちが肉を食べる時、牛や豚、鶏などは、人間が捕食を行う場合その対象となっているわけだが、拒否反応は現れない。
これは、捕食質と被食質が一致しているからではないだろうか。
つまり、体内での消化分解において、被食側の動物には全体的に人間が必要とする成分で構成されていなければならないのだ。
結局、捕食質と被食質が一致するということは、形は違えど構成成分が同じあるいは似たものであると言える。
他の動物を食べないのは、構成成分が一致しない部分があるということである。
それが拒否反応として現れるのだ。

では、人間が人間を食べるということにおいてはどうだろう。
同じものを食べるのであれば、拒否反応が出ないはずなのだが、実際は拒否反応が出ている。
共食いにおいて、「狂牛病」が現れるのと同じなのだ。
構成成分が一致しているにも関わらず、何故拒否反応が出てしまうのだろう。
それは、消化殺菌機能が関係してくるからだ。

消化するということは、分解して細かくし摂取可能な形にすることだが、化学反応と同じで成分が変わってしまうという結果になる。
殺菌作用も同じことで、生体機能を停止させる効果により、成分が働かない状態となるので、必要としている状態が別の状態に変化してしまうのではないだろうか。
つまり、捕食対象は同じものではダメなのだ。
消化分解されて成分が変わった時に、同じ成分あるはその成分を活動させるエネルギーとならなければならないのだ。

気になるのが、「食人族」。
人間が人間を食べることに対して、拒否反応も無く食することが可能なのかどうか。
しかし、実際に食べているという話が出ている。
このことにおいて、一つ言えることがある。
私たち人間は、皆同じものであると思っているが、実はいくつかの種類に分けることができるのではないだろうか。
それはまるで哺乳類という分類と同じように、人類という分類になるのだ。
しかし、その中には捕食と被食が存在する。
それにも関わらず、居住場所は同じなのである。
例えば、ライオンと鹿が一緒に住んでいるような状態だろう。
少なからずこのことは知っておいた方がいいと思う。


2013年6月9日日曜日

無意識に起こる低レベル維持機能


人間はミスを犯す時がある。認識している範囲で、自己指令機能が及ばずに想定内の事象に対処できない場合がある。簡単に言えば、思わぬミスをするということだ。例えば、手をついて座ろうとした時に、てを置く場所がズレて倒れてしまうなどの日常的なミスがある。

何故、認識しているにも関わらず、そんな単純なミスをしてしまうのか。体調が悪い、あるいは体力が低下しているなど他に原因が認められないなら、それは自己認識内における低レベル維持機能が関係していると思われる。

前にも述べたとおり、人間は環境に影響を受けるものである。それが、外見のみだけでなく、身体機能にまで影響を及ぼしているように思える。つまり、レベル10の人間が、レベル5の環境で生活しなければならない状態では、レベル5の身体機能で動くことになってしまう。でなければ、環境に合わせられないのだ。
予想外の失敗が起こる時、レベル10の人間であってもレベル5の人間が起こす失敗が起きてくる。これは失敗をすることで、レベル5であろうとする意識と一致させようとするからだ。

これを防ぐためには、たとえレベル5の環境であっても、それに合わせようとしてはいけない。逆にレベル10の環境にしようと努めなければ、レベル10の人間はその力を発揮できないことになる。

2013年5月11日土曜日

人間の内部要素活動における新しい因子の発見

人間の体内活動の中で、環境や条件が揃うことで発動する因子があることが解った。
良い環境の場所に移動したり、圧力などから解放された時に起こる体内因子の起動によって、形状が変化したり、感覚や思考の回転速度が上がることがある。
この因子は、体内に有りながら、条件を満たさない時点では発動しない。
優れた遺伝子の中にその因子が含まれているので、性質、体質、才能といった部分において作用するものと考えられる。

私はこの因子を「精錬因子(Purifying Factor)」と呼ぶことにした。
この精錬因子が発動した場合、その人個人の隠れた優秀性を引き出すような高度な人間的活動現象が起こり始める。

逆に、環境や生活条件の悪化は、この因子の活動を停止させてしまうだろう。
その点において、人間は常に身の周りに良い環境(食を含む)を作る努力をするべきであり、生活圏での対人関係などで起こる圧力も回避するよう心掛けなければならない。
更に、社会的に向上させる場合は、経済的余裕と利便性のあるシステムが必要となってくる。

2010年8月21日土曜日

身体の治癒作用に見るDNA遺伝子の修復過程

DNAの二重構造が破壊された後に起きる修復の過程を身体の治癒作用に見ることができる。
例えば切り傷を負った場合、傷口から血液が流れ出るのを防ぐために、血液中の血小板が傷口に集まり穴を塞ごうとする。
皮膚の表面で穴を塞ぐための凝固が行われると、内部では細胞再生の修復が始まる。
つまり、内部を守るために必要な要素が集められ、通常の形態が変化するのである。

実は同じことが、DNAのトランスフォーム(変形)の時に起こっていると考えられる。
「変形」と言っても、ただ形態が変わるだけではなく、ちゃんと理由があるようである。
外部からの衝撃で破損した部分の遺伝子は、この時内部へと組み込まれ、その衝撃に対する強さを持つ遺伝子が表に現れるといった具合だ。
つまり、傷ついた遺伝子は内部へ格納され、それを守るための遺伝子が盾となるために表に終結するのだ。

この時の精神状態は、衝撃を受けた心の傷を隠し、外見を安定させようとする。
外見を安定さるためには、過去において同じような衝撃に耐えた遺伝子が使われるようだ。
不幸にもそのような耐久性を持つ遺伝子を有していなかった場合は、精神不安定が長く続いてしまうことになる。
そのままにしておくと、精神破壊が起こる可能性が高くなるので、できるだけストレスを避けられる環境を作らなければならない。

またDNAの変形は、外部からの衝撃などに関わらず、日常的なシチュエーションで常に変化しているようだ。
例えば、仕事をしてる時と、余興にふけっている時では、DNAの形態が違っている。
あるいは、親密な関係を持っている相手と話す時と、初対面の相手と話す時でも違う。
こういう場合の変形は小さいものになるが、人は日々変形を繰り返していると思われる。
「臨機応変」という言葉があるが、いろんな場合に対処できる人は、この変形が速やかに起こっている。
逆に「臨機応変」に対処できない人は、この変形が起こりにくい状態であると言えるだろう。

DNA内で起こる変形の比喩

人間の遺伝子レベルで行われる驚異的な変形の仕組みをある作品を通して見ることができる。
まったくこの通りというわけではないが、目に見えない部分のことであるだけに、この作品を観ることで想像と理解が進むのではないだろうか。

その作品は、マイケル・ベイ監督、スティーブン・スピルバーグ制作総指揮の映画「トランスフォーマー」である。
もう観られた方も多いだろう。
この映画の中では、「transformation(変形)」をロボット生命体を使って表現している。
作品の中で最大約2万個以上の部品が複雑に動いて「変形」していくシーンは、観る者を圧巻させる。
その複雑な仕組みは、まさにそのDNA内の遺伝子が修復されていく過程を描いているのである。

この作品のソフト版キャッチコピーは「地球の危機を救ったのは、少年の勇気と、変形する愛車だった・・・。」である。
この「愛車」というのは、人間の肉体を示しており、その体内で起こる「transformation(変形)」がDNA内での遺伝子における修復変形を意味している。
つまり、この作品の主人公が持つ愛車の変形では、前回解説した「人間により良い影響を及ぼす遺伝」の割合が増えた例だと言えよう。

逆に敵側の「ディセプティコン(反逆者の意)」は、「人間に悪い影響を及ぼす遺伝」の割合が増えた状態を示している。
つまりこの作品は、遺伝子DNA二重らせん構造内の変形がもたらす人間の性質変化で、善と悪に分かれた人間同士の戦いを描いているのである。

現代人のDNA形状とその影響

現代における人間のDNAはどのような状態に置かれているのだろうか。
この疑問に対する答えは、現代人が日常的にどのような状態にあるかを考えれば仮説として浮かび上がってくる。
大概の人は、激しいストレスに脅かされ、あるいは強いフラストレーションの圧迫に耐えている状態にあるだろう。
世の中の流れや仕組みが、人間に多大な圧力を掛けていることは理解できる。
その場合、DNAはそのストレスや圧力の影響で、部分的に破壊されていると思われる。
しかし、そのままの状態にあるわけではなく、時に応じて修復が行われているので、見た目での変化を確認するのは難しいかもしれない。
それでも初めの状態にはほど遠い形に変形しているはずである。
恐らく、二重らせんの片方の要素の割合が多くなっているのではないだろうか。
前回にも説明したが、破壊されていない部分が修復に使われたからだ。

ここで、精神的な性質と共に、DNAのレールが短くなったことで寿命も変化し短縮していると考えられる。
いわゆる都会に住み日常的にストレスを浴びている人より、田舎のストレスが少ない生活をしている人の方が長寿なのはこのせいだろう。
あるいは健康的な食生活がDNAの修復に貢献しているからかもしれない。

急に生活を変えることは、大変なエネルギーを使ってしまうので、簡単にできることではないが、長い目で見れば、ストレスを軽減させるような生活にする方が、人間としての自然な状態を維持できることは確かである。

しかし、現代を悲観的に見ているわけではない。
破壊されたDNAがその人にとって必要でないものであれば、むしろ良い場合がある。
遺伝として受け継いだものに中には、悪影響を及ぼす類のものもあるからだ。
それがその人の思考や行動を決定付ける性質を持っているのであれば、その人生に良い影響を与える遺伝子の割合が多い方がより良い状態を確保できる。
時にストレスが精神を強くすると言われる由縁である。

人間の行動と制御システム

人間は普段から自らの思考に基づいて行動している。
しかしながら、その行動の結果が自らの理想とかけ離れているのはどうしてだろう。
たとえ「遺伝子」による性質の特徴があったにしても、人間は良いと思われる方向に向かうべきなのではないだろうか。

ここで自らの思考が如何にあやふやなものであるということが解る。
その理由は、環境に他ならない。
人間は自らの思考をその環境からの情報を元にしている。
一般的に考えられる環境からの情報は、学校あるいは職場での会話、テレビ放送、インターネット内の記事などであろう。
最近は本を読む人が少なくなり、蓄積される知識は電波で送られてくる一方的な情報が主体になってしまっている。
過去に知識人と呼ばれていた人たちは、自らの疑問を解くために書籍を読み漁り、同種の専門家の戸を叩いたものだ。
だが現代では、テレビやインターネットでたくさんの情報を収集できるようになった。
これが「知識人」の大きな落とし穴になっていることは、周知のことだろう。
それはせっかく集めた情報の真偽を問うための技術、あるいはそういう場が無いことだ。
真偽を明確にしなければ、集めた情報を活かすことができない。
下手をすると、その膨大な情報に振り回されて、事実から遠ざかってしまう恐れがある。
その場合、本道から外れて見当違いな行動を起こすという事態に陥る。

この落とし穴から脱却するために、自らの疑問には自らの五感を使って解明する必要がある。
必ず一つの情報を得た時には、自分でその情報の正当性を確かめなければならないのだ。
簡単に情報を得られる時代だというのに、逆にその情報の真偽を確かめる手間が掛かってしまうという矛盾が起こっている。
しかし、この手間を怠ると「思考制御システム」に捕まってしまうことを忘れないで頂きたい。